私が50歳となった1991年、父の死亡により東洋メタル工業の代表取締役に就任しました。
しかしながら、バブルの崩壊を受け、世界中の産業が痛手を受けていた時期です。

社長に就任しても私よりも若い従業員はおらず、社員は既にいわゆる良い時代を通り過ぎて、住宅ローンも払い終えたベテランばかりです。そうそう真剣に汗を流して働かなくてもよい人たちばかりの会社でした。
そこに来て、独裁的な経営者から明確な指示が次々と飛んできて、その指示を待つことに慣れてしまった人たちには新しい発想など求めることは出来ません。

社長就任から2年間、何をどうしようか、途方に暮れる時期を過ごしました。
バブルが崩壊し、すべての産業が停滞していた時期でもあります。

3年目、社内に新しい風を起こさせようと若い人たちを入社させることを始めました。
ところが、当時の就職活動は売り手市場でなかなか優秀な学生は応募してくれません。
当時の職業安定所、今でいうハローワークに求人票を出しても、入社してはすぐに辞めてしまい、定着はしませんでした。終身雇用の崩壊が話題になっていた頃です。

NC旋盤を導入し省人化を図ることもしてみましたが、これを使える人もいない状態でした。

そして社長就任の初年度は200万円の赤字、2年目は400万円の赤字、3年目は800万円の赤字と赤字が倍々になって行きました。
そして、バブル崩壊後の経済は、なかなか回復する様子が見られず、世間では暗黒の10年という時代に陥っておりました。

60歳2001年、東洋メタルを閉鎖

バブルが弾け、毎年業績は赤字で、従業員のモチベーションも上がらなかったため、私は人生最大の決意をすることにしました。

株式会社東洋メタルの解散です。
従業員の再就職の道を付け、取引先に理解を求めて、それなりにストレスがかかる仕事でした。
父の創業から60年、お陰様で、大負債を抱えた倒産ではありませんから、それなりに残るものはありました。
高度成長期に得られた土地や経営者としての財産が、会社を畳むために大いに活かされました。
ただ、それ以上に手元に残ったものがありました。
永年、お付き合いくださった関係会社様との関係、そして私自身の経験と軸受の開発、設計、さらには軸受の修理、部品交換のための技術やそれを実現するノウハウです。

これは現在の東洋テクノエンジニアリングの無形の資産に他なりません。